2012年3月3日土曜日

"You And Me"




『ブルーバレンタイン』というタイトルの通り、欧米でブルーという言葉がつくとたいがい憂鬱というかオモいというか…やっぱりな感じで、男女の恋愛がテーマの映画らしく、始まりから終わりまでなんともはかなげで、ラストに鳴り響く華やかな花火がよりいっそうこの映画の主人公二人の悲壮感をどよーんと漂わせる映画でした。

主人公のシンディという女性は頭がいいのだけれど、ちょっとかわいそうというか、不器用というか、母になればさけることのできない、どぶのように深い子育ての疲れからくる精神的疲労と肉体的疲労による「汚染」にかかってしまう。

夫であるディーンに生活力があり、アル中の一歩手前でなければ、今の状態から抜け出す事ができるだろうと思い込んでしまう「汚染」にかかってしまったのだ。
汚染にかかってしまったから、夫を愛せなくなったのか?それとも愛せなくなったから汚染にかかってしまったのか?それはもうどっちでもいいことで、かわいそうなのは、愛する人の家族のために生きようと決めて、その愛する人から愛がもらえないと嘆く夫のディーンだ。たしかにかわいそうな夫なんだけれども、愛を得るためにはやはり努力は必要ではないかと思う。鷹のトレーナーはダイノジみたいだし、あのグラサンはなんだ?はげ上がった額に、にあいすぎなのだ。あかん。

かつてディーンは、シンディからの愛を得るためシンディの元カレ、そしてシンディの唯一の一人娘の父親であるボビーに嫉妬からぼこぼこに殴られてしまう。(これを機にシンディはディーンに惚れこんでいく。まるで♪けんかをやめて症候群状態)



※あえて、想像力が、かきたてられる?音声だけにしてみました。※

映画の冒頭でボビーとシンディがスーパーで久々に出会い、それを夫であるディーンにわざわざ語るシーンがある。「心配しないで。ボビー、太っていたから」と、言わなくてもいいことを、くどいいようだけど「わざわざ」と、いう。さらに逆ぎれした夫に対し「ボビーは負け犬って、いいたいの」と念を押す。これで怒らなければ男ではないと思う。そう、シンディは彼を怒らせたかった。夫の嫌がることをわざわざいう妻になった。これは単なる夫への当てつけ。「もうあなたの事は愛していない」と言えないから、このような当てつけをしないとならなくなる。

じゃあ、ディーンでない他の誰かとなら、シンディは幸せになれるのか?そんなことはない。どんな男とひっついても結果は同じだと私は思う。
シンディの「汚染」がなくならない限り、どんな男と結ばれようが、結局相手を責めることはなくならない。
では、シンディはなにをどうすれば、幸せになれたのか?家庭を持つことや子どもを育てる事への不安やなくならない悩みから解放されたのだろうか?

(ここからは私のまるっきりの仮定話なのでご注意を。)
…「結局、許すことができないと人は幸せにはなれない。」…のであーる。
これは30年位前のハリウッドのベトナム戦争を題材にした映画『天と地』で、多分、えらいお坊さんが主人公の女性に向けていった台詞であーる。



この、許すことで自分が救われるというなんとまあ、流暢な。もっと端麗な言葉でいいかえれば「無償の愛」だろうか?

あと、この映画にでてくる、たぶん偉いお坊さんは、さらにこんな事までも言う。
「父親がいない家庭で子どもを育てるということは、屋根のない家で子どもを育てるのと同じことだ。」

はあー。すげえぜ。離婚やめようぜ。みんな。やっぱ坊さんだぜ。いうことはんぱねぇぜ、ケタちがうぜ。って感じになりません?

まあ、そこらへんはおいといて、

この、『天と地』という映画は本来は戦争映画ではなく、母として女としてどう生きていけばいいのかというベクトルを示したストーリーなのに、オリバー・ストーンの手によって「ベトナム三部作」ともいわれるコテコテなハリウッド流戦争映画になってしまったのであーる。…と私は勝手に思う。

まあ、そのへんもおいといて…。

ブルーバレンタインという映画を観て思ったことは、たしかに、シンディとディーンの間には愛がきちんとあったということ。
この愛というのがやっかいであって、目には見えない。
じゃあ、形にできないものなの?って聞かれれば、答えはノン。
愛し合う男女には悪い良いも含めていずれは子供ができる。
じゃあ、子供ができないなら愛はないの?って…それは違うだろう。

この世の中に別れたカップルの数だけ、きちんとそこに、愛は、たしかにあった。
この愛は見えないだけで、きちんと存在する。
別れたから全て終わりには、ならない。
別れたからといって、愛は消えない。
記憶や匂いや色んなものに形をかえて、なつかしく思ってみたり、せつなくなってみたりできる。これは、愛がきちんと存在している証拠だと思う。

人間は見えない物はいつしか信じなくなっていってしまった。
みえないものこそ大事なのに…と思う反面、大恋愛中はまったく何もみえなくなるのがあたり前だ。でも、それは皆同じだ。人類皆兄弟だ。

失恋のダメージは多い。自分がよくても相手が嫌なら、好きな人の前から、去らなくてはならないし、いつまでも未練たらしく好きな人のことをじめじめと畳からきのこがはえてくる梅雨の時期のように思うことだろう。
なかには、その去った相手を裏切り者として憎むこともあるかもしれない。
でも、そこは試練だ。大地ではないが、試されているのだ。許しあう。たとえ許されないとしても全部ひっくるめて許す。この寛容さは今現在生きている私たちに足りないものではないかと思う。目にみえない愛をみえるような目に鍛えあげるにはこの「許す」という行為が一番なのではないかとシンディとディーンをみて思った。

とある、精神科医が若い女性の大恋愛は危険と太鼓判を押してるが、その方がこの映画をみたら「やっぱりね」というだろう。でも、アタシはそうは思わない。人は試されないと成長できないし、傷がつかないと過去を振り返ることもできない。
大概の方はこの後味の悪い終わりかたのこの映画にドンヨリするが、アタシは逆だった。

"You And Me"という曲は愛する二人にとっては似合いすぎるほど素敵な曲だ。
でも、幸せであたりまえな時代はもう終わろうとしている。
大量消費の時代も、そろそろ幕切れかもしれない。

どれだけつらい事がおきてもすべてを受け入れる度胸とそれを許す寛大さがないと、この先生きづらい世の中になるかもしれない。

人類皆兄弟。許しあいましょうね。




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